大義塾の思い出

東京都杉並区荻窪に、剣道道場「大義塾」はあります。

これは、その「大義塾」で頂いた想い出の手ぬぐいです。

1988年春、私は大学に進学するため上京しました。
鹿児島での3年間の高校生活と福岡での1年間の浪人生活を経て、なんとかようやく大学生になることができた年でした。

東京の事情がよく分からなかった私は、知り合いが「高円寺や荻窪と言うところが住みよいらしいよ。」というのを聞いて、その話だけを頼りに、ひとり上京し、JR高円寺駅前で最初に目に入った不動産屋に飛び込みました。

マンションやアパートを何件か見て回り、荻窪の本天沼というところに、家賃38,000円という破格のアパートをみつけ、そこを借りることに決めました。
間取りは4畳半二間、木造2階建ての2階の奥の部屋で、お風呂はありませんでした。
とてもいい感じのアパートでした。
近くに銭湯があったので、部屋にお風呂がないことはあまり気になりませんでした。

周りに知人がいない環境での初めてのひとり暮らしがスタートしました。

大学2年生までは渋谷から東急東横線に乗って日吉に通うことになるのですが、まさか自分が通う大学が、どちらかというと横浜に近い場所だなんて(よく調べればわかったでしょうが)思いもよりませんでした。東京の大学に通うのだから東京に住めば大丈夫と思い込んでいたのです。日吉と渋谷と新宿と荻窪の位置関係なんて頭に入っていませんでした(^_^;)
ひとり暮らしの始まりは、毎日片道1時間半かけて通学するまじめな大学生生活の始まりでもありました。

やがて、何もかもが新しい都会での生活にようやく慣れ始めた大学1年の終わり頃、ひょんなことから大義塾の存在を知ることになったのです。この出会いが、高校を卒業して2年近くもブランクが空いてしまった剣道を再開するきっかけになりました。あの時大義塾と出会っていなかったら、私はあそこで剣道をやめていたに違いないのです。

また、後で知ったことですが、アパートの近所には何箇所か剣道の稽古会があったようです。
そんな中で、他の稽古会でなく、大義塾という道場と縁を持てたことが、今日の私にとってどれだけ大きい意味を持つか、当時はあまりよく分かっていませんでした。

大学では体育会剣道部に入部しなかった私が、ほとんど4年間お世話になった大義塾。
まるで家族のように接してくださった中村のママと、のりこ先生にはお世話になりっぱなしで、今でも感謝して感謝しすぎることはありません。

大学を卒業しても、東京で就職してずっとお世話になるつもりでいた大義塾。
それが、ふとしたきっかけでお別れせねばならなくなってしまいました。

1992年春の大学卒業と共に、福岡で就職することになったのです。
いくつかの東京の企業に内定をいただいていながら、就活終盤になって思うところがあり、急遽郷里の福岡に勤め口を探したのでした。

大義塾とのお別れの日、先生が「持って帰りなさい」と沢山渡してくださったのがこの手ぬぐいです。

その後、福岡に戻ってしばらくは、あまりの仕事の忙しさに剣道から遠ざかってしまいましたが、1995年夏に会社の仲間と週に一度の稽古会をスタートさせて、本格的に稽古を再開しました。この思い出の手拭を、1枚1枚大切に使わせていただきながら…

あれから丸15年を迎えようとしています。

大学生の時も、社会人になってからも、私の剣道と共にあった「大義塾の手ぬぐい」。それもこれが最後の一枚です。

この手ぬぐいがぼろぼろになるころ、新しい手ぬぐいをいただきに大義塾に戻れたらいいな、などと漠然と考えていたのが、徐々に現実味を帯び始めています。

私に剣道を続けさせてくれた大義塾のみなさんと、こんな風に私の人生を支え続けてくれる剣道への入門を勧めてくれた両親に、今更ながら心から感謝する今日この頃です。

今年こそは、大義塾にカムバックするぞ!!(*^_^*)

この記事を書いた人

ザイツゴロウ

地域貢献を目指す実業家。専門は企画、IT、マーケティング、能力開発。ビジネスプロデューサ。作家。剣道家 錬士六段。剣道道場 福岡妙義塾 塾長。剣道道場 大義塾 塾生。鹿児島で青春時代を過ごした 36期 ラサーリアン。独立自尊を標榜する慶応義塾塾員 経済学士。平凡な夫。二男一女の父。100キロ超の巨体から「鯨社長」と呼ばれる旅人。優れた友人、優しい妻、明るく賢い子どもたちに支えられて生きる知命の九州男児。